れんげのはなかざり

読んだ歌集・歌書についての感想を書くブログ。無駄話多め。

『キリンの子 鳥居歌集』 鳥居

読んでおかなければいけない気がした。

鳥居氏の境遇のことにここでふれる必要は無いと思う。自分にとっても被暴力や病や薬や自死はそんなに遠い世界のことではないし、こんな時代に生きていれば多かれ少なかれ誰にもその経験はあるのではないかと思う。ただ、たとえば「蓮喰ひ人の日記」を読むときに自分の育児体験の幸福をだぶらせるのは良くても、やすやすとこの歌集と自分の記憶とを重ねることは許されないだろうなとは思う。それから、表現されていることの凄惨さを作品の価値だと錯覚しないようにとか、、、少し身構えて読んだ。 

キリンの子 鳥居歌集

キリンの子 鳥居歌集

 

  

実は、私が短歌をちゃんとやろうかなと思い始めていた頃に「虚構」だの「短歌の私性」だのの議論が始まってしまい、なにがなんだか正直途方に暮れていたのだ。というのは、入門書には「短歌は紙と鉛筆があれば誰でも始められます、短歌では何を詠んでもいいんです」と書いてあったから、実に気楽に始めてしまったし、なるほど自由だと喜んでいた矢先だったから、「えっ詠んだらまずいものがあるの!」というのがまず驚きで。

結局、無知なりに貧困な語彙で考えたのは「でも石井僚一さんの受賞作で心が動いたのはまったくの嘘ではなかったからだよなぁ」ということだった。事情を知った後でも私は遺影の歌に泣く。

だから、実体験を詠むことは作品に力を与えるけれども、一方で短歌という詩にするにはそれなりの技も必要だということもわかる。それ以上に困難なのは、それを何度も繰り返し思い出したり、捉えなおしたりという工程じゃないだろうか。過剰でも誇張でもなく表現するのには客観性が必要だろう。もしかしたら、自身を客観視したり、あるいはその場面を俯瞰することで自分が救われるということもあるのかもれない。それが作歌の原動力ならば私はそこに着目し、価値を見出したい。

 

 

昼ごはん食べず群れから抜け出して孤独になれる呼吸ができる

 

目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ

 

水槽の魚のように粉雪を見ている家に帰れぬ友と

 

八百屋なら生きていていい場所がある緑豆もやし積み上げながら

 

死者を出さぬ家はあらざり故郷の夕日はいつもゆっくり沈む

 

これからも生きる予定のある人が三か月後の定期券買う

 

休日は薬を飲まず過ごしてみるこんなに細い心をしていたか

 

橋くぐるときに流れはかがやきをふいに手放す 茜の時間

 

スーパーの惣菜の味それぞれに母を亡くした日の味がする

 

友達の破片が線路に落ちていて私と同じ紺の制服

 

顔文字の趣味のよくない友だちが空の写真のメールを寄越す

 

手を繋ぎ二人入った日の傘を母は私に残してくれた 

 

 

 

私は自分が短歌をやっている理由をあまり考えたこともないが、「生きづらさ」もあるのかもしれない。さらけ出す術をもはや持たないが、この歌集をもう一度読むときには自分をゆるめてしまったほうがいいのだろう。