れんげのはなかざり

読んだ歌集・歌書についての感想を書くブログ。無駄話多め。

『イーハトーブの数式』 大西久美子

今月11日に批評会があり、私も参加した。歌集はなるべく、批評会の前に自分の感想をブログにUPしようと思っているのだけれど、今回は間に合わなかった。今回は批評会で交わされた意見を受けての自分なりの考えを綴ってみたい(と思いつつ、もう2週間以上経ってしまった)。 

 

イーハトーブの数式 (新鋭短歌シリーズ)

イーハトーブの数式 (新鋭短歌シリーズ)

 

 

批評会の場で多かったのが、「歌集の一部はとても良いけれど二部は、うーん?」という意見だったと思う。「うーん?」の部分は、「コンピューター用語がわからない」から「歌自体あまり良くない」まで、様々だった(非常に大雑把な言い方になってしまって申し訳ないです)。

パネリストのうち、服部真里子さんは「一部と二部とでは詠っている内容が異なるだけで、詠い方や歌の良さが変わるわけではない」と指摘し、擁護していたけれども、否定的意見の人々を説得できてはいないと感じた。

 

私は、以前の職業がコンピューターシステムの開発だったので、二部の世界へのアレルギーはさほど無い。いま「アレルギー」と書いてしまったけれども、否定的意見の中には、「コンピューター用語そのもの」や「コンピューターの言葉が短歌の中にあること」への拒否反応もあったように思う。

といっても、私も二部の世界にとても詳しいというわけでもない。コンピューターといってもハードウェアは大型汎用機からパソコン・スマートフォン、もっと小さなものまである。ソフトウェアでいえば、ユーザーが直接目にする部分も、普段意識はしないが裏で処理されているものも、コンピューター自体の内部に関する部分もある。ちなみに私はパソコンの、ユーザーにごく近い部分を開発していた。

 

二部に詠われているのは、コンピューターの内部の内部、CPUやメモリーに使われている集積回路の世界。そこに大西さんの関心の中心にあることが読みとれる。その仕事への愛着も、故郷や父への愛とひとしいことを感じる。一般の人には目に触れない、・・・「これは自分だけが知っているのだ」というような・・・秘密を抱えているときめきも。

 

4ビットのPC-1211ピタゴラスが動かない あなたの指の記憶ゆ消えて

 

ひそやかにPL/1が呼吸する世界は古き言語で動く 

ここに詠まれているのは、実はコンピューターの歴史の中ではかなり古い時代のものだ。PL/1というのは1960年代からある開発言語で、事務処理から科学技術までなんでもござれなやつである。「世界は」という大きな名詞にはそういう意味合いが含まれていると思う。PL/1の歌の一連にはスマートフォンの歌もあるので比較的最近作られたのだろう。古い、太古といっても決して大げさではない時代への懐古や憧憬を感じる。

だから、批評会での「コンピューター=新しいもの」とする意見には、非常に違和感があった。短歌という超文系的なものさしをあてがわれることへの、もどかしさというか。

 

私の乏しい経験からだが、たとえば歌会などではわからない言葉が歌の中にあれば必死で調べるけれども、それでもわからないまま選をしなければならないこともよくある。丁寧に読むためにできるだけ「そのもの」を調べる努力はするけれども、わからないことはわからないままに鑑賞する、ということもあっていいんじゃないか?

  

雑なくくりと承知で敢えて「文系」と「理系」に分けるが、この二つを軸としたマトリックスがあるとしたら、大西さんは「文系度・高かつ理系度・高」の部分にいる。一方「短歌の人」のほとんどは「文系度・高かつ理系度・低」のあたりに多く分布するのだろう。もしも短歌や歌集というものが、「文系度・高かつ理系度・低」のあたりのみを読者に想定しなければならないとしたら、それはそれでつまらないなぁと私などは思うのだが。それこそ、新鋭短歌シリーズから出す意味がないというか。

 

引用するために改めて二部を読み返したけれど、言われているほどコンピューターの専門用語が多いようには感じなかった。もうかなり一般的なカタカナ語も実は多いのだが、それを歌に詠み込むことに否定的な意見も根強いのはしかたない。大西さんはそんなことは承知の上で挑戦しているのだろうと思う。ならば、進化の早い(流行り廃りの早い)世界の言葉なのだから、浸透していくのを待ったり、受け入れられやすい言葉のみを選択する必要もないと私は思う。批評会では一部のような歌への支持が強かったけれども、私自身は大西さんの挑戦にひそかに期待している。